小さな子供にとって母親はすべてですが、母親の方はいろいろです。 子がすべての母親は多いと思いますが、そうでない母親も少なくありません。 いくら貧乏でも子供のパンツ(下着)一枚ぐらいは用意することは出来ます。
自分の不幸ばかりを嘆いていて、子供のことなど眼中にない母親もいます。なんといったって、母親になる資格試験はないのですから、こんなことがあっても不思議ではありません。
「身体検査はパンツ一枚と決まっているだろ。何でお前だけズボン、はいているんだ!早く脱げ!!」と先生は血相変えて怒ります。しかし、パンツをはいていないのでズボンは脱げません。身体がガタガタ震え、大粒の涙がぽろぽろ出てきました。
フルチンになるよりも、パンツ持っていないことが、クラスの皆にバレるほうが、恥ずかしいのです。 何故か、ひもじかった、寒かった記憶は残らない。覚えているのは、それらに伴う屈辱感だけです。小学3年でも屈辱感は充分感じます。
戦後4年もたつと貧しいとはいえ、暮らしは落ち着いてきています。多くの人々が倹約に倹約を重ね少しずつ生活を改善していたのに、我家だけが終戦直後のままです。母親が見栄っ張りで計画性がないからです。 戦前の豊かな生活が忘れられないのですね。
近所の魚屋も何もかも空襲で焼かれ、無一文からのスタートでしたが、そのとき既に小金持ちになっていました。親父は凄く厳しく、母子5人が奴隷のように働かされていました。特に長男が悲惨でした。シンちゃんという愛称の中学3年生。気の優しい子でした。
隣の魚屋さんは確かに立派です。 空襲で焼かれて「無一文の衣食住なし」から立ち直って3年後には財産も蓄えたのですから。 しかし、妻子は奴隷のように働かされていました。 既に生活も安定していたのに、一向にたずなを緩めません。
親父は威張っていて、母親は唯々諾々と夫に従うだけ「子供ばかりが家の為」という感じでした。嫌な仕事は子供に押し付けます。活きの悪い売れ残りの魚を売るのは本当に大変でした。
シンちゃんは売れ残った魚をリヤカーに積んで売りに行かされますが、コースも時間もだいたい決まっていました。 坂の手前で待っていて、「押しましょうか」と声をかけると、少し笑って「うん」といいます。私の狙いは「さつま揚げ」や「はんぺん」です。そのまま食えますからね。
売れ残りですから活きも悪く「昨日買った魚が食えないから引き取れ」と要求する客もいました。シンちゃんは詫びて、黙って泣くだけで、決して魚を引き取ってお金を返したりしません。 客は諦めて、捨て台詞を残して帰りますが、シンちゃんはまだ泣いています。
そこで私の出番です。客が遠ざかったのを見定めて「バカヤロー、ションベンひっかけるぞ~!」と聞こえないように怒鳴ります。シンちゃん、泣き止んで「食べるか」と言ってさつま揚げ一枚私にくれますが、売り物ですから自分は決して食べません。シンちゃんの親父は、金はあるけれど厳しいのです。
塀や壁にですが、たまには本当にひっかけます。口先だけでなく誠意を見せることが肝心です。シンちゃんがやりたくても出来ないことを、代わりにやって上げる。これが本当のサービスです。こうして私はシンちゃんの片腕となり、栄養補給に成功しました。
30年後、シンちゃんの家を見に行くと5階建てのビルになっていました。シンちゃんも当時のことを思い出さないはずはありません。私のことも覚えていると思います。「頭でっかちの可愛いやつだったな、まだ、生きているかな?」
多分この世にはいないと思っているでしょう。生きているなら会いに来るはずです。私はそう確信しています。幼少時代の絆は強いのです。
しかし、私に限らず、我家の人間が近所だった人に会いに行くことはありません。合わせる顔がないのです。 我家だった場所は居酒屋になっていたので、入ってみました。もちろん知らない人が営業しています。あの辺に座ってご飯食べていたなとか、いろいろ思い出しました。
幼少の頃「くれ」とか「ちょうだい」とか言った記憶はありません。意識したわけではなく、そうゆう言葉が口から出なくなってしまったのです。
ちょうだいと言っては拒否されることを繰り返すうちに、言えなくなってしまったのです。「くれ」と言えるようになったのは大人になり生活が安定してからです。
自分の不幸ばかりを嘆いていて、子供のことなど眼中にない母親もいます。なんといったって、母親になる資格試験はないのですから、こんなことがあっても不思議ではありません。
「身体検査はパンツ一枚と決まっているだろ。何でお前だけズボン、はいているんだ!早く脱げ!!」と先生は血相変えて怒ります。しかし、パンツをはいていないのでズボンは脱げません。身体がガタガタ震え、大粒の涙がぽろぽろ出てきました。
フルチンになるよりも、パンツ持っていないことが、クラスの皆にバレるほうが、恥ずかしいのです。 何故か、ひもじかった、寒かった記憶は残らない。覚えているのは、それらに伴う屈辱感だけです。小学3年でも屈辱感は充分感じます。
戦後4年もたつと貧しいとはいえ、暮らしは落ち着いてきています。多くの人々が倹約に倹約を重ね少しずつ生活を改善していたのに、我家だけが終戦直後のままです。母親が見栄っ張りで計画性がないからです。 戦前の豊かな生活が忘れられないのですね。
近所の魚屋も何もかも空襲で焼かれ、無一文からのスタートでしたが、そのとき既に小金持ちになっていました。親父は凄く厳しく、母子5人が奴隷のように働かされていました。特に長男が悲惨でした。シンちゃんという愛称の中学3年生。気の優しい子でした。
隣の魚屋さんは確かに立派です。 空襲で焼かれて「無一文の衣食住なし」から立ち直って3年後には財産も蓄えたのですから。 しかし、妻子は奴隷のように働かされていました。 既に生活も安定していたのに、一向にたずなを緩めません。
親父は威張っていて、母親は唯々諾々と夫に従うだけ「子供ばかりが家の為」という感じでした。嫌な仕事は子供に押し付けます。活きの悪い売れ残りの魚を売るのは本当に大変でした。
シンちゃんは売れ残った魚をリヤカーに積んで売りに行かされますが、コースも時間もだいたい決まっていました。 坂の手前で待っていて、「押しましょうか」と声をかけると、少し笑って「うん」といいます。私の狙いは「さつま揚げ」や「はんぺん」です。そのまま食えますからね。
売れ残りですから活きも悪く「昨日買った魚が食えないから引き取れ」と要求する客もいました。シンちゃんは詫びて、黙って泣くだけで、決して魚を引き取ってお金を返したりしません。 客は諦めて、捨て台詞を残して帰りますが、シンちゃんはまだ泣いています。
そこで私の出番です。客が遠ざかったのを見定めて「バカヤロー、ションベンひっかけるぞ~!」と聞こえないように怒鳴ります。シンちゃん、泣き止んで「食べるか」と言ってさつま揚げ一枚私にくれますが、売り物ですから自分は決して食べません。シンちゃんの親父は、金はあるけれど厳しいのです。
塀や壁にですが、たまには本当にひっかけます。口先だけでなく誠意を見せることが肝心です。シンちゃんがやりたくても出来ないことを、代わりにやって上げる。これが本当のサービスです。こうして私はシンちゃんの片腕となり、栄養補給に成功しました。
30年後、シンちゃんの家を見に行くと5階建てのビルになっていました。シンちゃんも当時のことを思い出さないはずはありません。私のことも覚えていると思います。「頭でっかちの可愛いやつだったな、まだ、生きているかな?」
多分この世にはいないと思っているでしょう。生きているなら会いに来るはずです。私はそう確信しています。幼少時代の絆は強いのです。
しかし、私に限らず、我家の人間が近所だった人に会いに行くことはありません。合わせる顔がないのです。 我家だった場所は居酒屋になっていたので、入ってみました。もちろん知らない人が営業しています。あの辺に座ってご飯食べていたなとか、いろいろ思い出しました。
幼少の頃「くれ」とか「ちょうだい」とか言った記憶はありません。意識したわけではなく、そうゆう言葉が口から出なくなってしまったのです。
ちょうだいと言っては拒否されることを繰り返すうちに、言えなくなってしまったのです。「くれ」と言えるようになったのは大人になり生活が安定してからです。
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