朝食はテレビを消して話しながらとる。 「朝の食卓」の話題は近所の中島公園、健康、そして札幌シニアネット(SSN)、カラオケ、歩こう会など。
東京砂漠と言う言葉があるのなら、私が育った渋谷区金王町はオアシスかも知れない。緑いっぱいで水も豊かだった。しかし、育ったころは終戦直後、極端な食糧不足で子供たちの多くは栄養不良でやせていた。焼け跡にもいろいろあって山の手と下町とは違う。渋谷、特に青山周辺は緑が豊かだった。

焼夷弾による空襲で地表は焼き尽くされてはいたが、地面の下は無傷のようだった。つまり水道管のほとんどが残っていたのだ。こんな訳で水と緑には不自由しなかった。一方、食べられるものは緑のホンの一部であることを思い知らされた。

住民の住むバラックの一つひとつに水道を引く余裕はない。無事だった水道を付近の人が共同で使う。だから水道は必ず外にある。それを家までバケツで運ぶのだ。食器洗いや洗濯などは水道のそばでするので、主婦たちの井戸端会議の場となった。当時は食料不足なのに水が豊富だから「水っ腹」という言葉が流行っていた。

「前回に荷馬車の話をしましたが、馬だけじゃありません。山羊もウサギもいましたよ。ニワトリなんか、ほとんどの家で飼っていました」
「それでも食料不足か。信じられんな」
「人口の急増です。戦争が終わったら途端に2倍以上。考えられますか?」
「食べ物が無いのに何で来るんだ」
「満州とか外地から帰る人、疎開先から帰る人、何も知らないで東京に行けば何とかなると思っている人」
「そんな人が居たのか」
「我家がそうでした」

敗戦での混乱のなかでは、正確な情報など入って来ない。渋谷区の人口は1945年6月には空襲等の影響で4万6千人までに減っていたが、終戦後の翌春には10万人を超えている。1年もたたない内に人口は2倍以上に激増したのだ。当然一人当たりの食料は激減。私は不思議に思っている。子供時代は死の恐怖に怯えていたのに、なぜ年を取った今、ノンキに暮らせるのだろう。

ある日家の前に大きなリュックを背負った髭面の復員兵が立っていた。その人は母を見ると「叔母さん」と言ったきり声をつまらせて泣いた。母は「フミオさん無事だったのね」と言って抱きついた。後で母の姉の長男だと言うことを知った。「姉さんまだ満州から帰って来ないんだよ」と母。その後何を話していたかは覚えていない。

リュックの中には食料がいっぱい入っている様だ。その日は乾パンと金平糖を腹いっぱい食べて寝た。夜中に目が覚めると話し声が聞こえた。母とフミオさんだ。
「姉さんが満州から帰るまでウチで待ってたら」
「狭くて寝る場所がないでしょう」
「建て増しすれば寝床くらい作れるから」と母は一生懸命引き留めている。

増築と言ってもホームレスが仮小屋を作るようなもので、寝場所を作るだけだった。同室の5人家族が期待しながら二人の話の成り行きに聞き耳を立てていた。少なくとも食料の入ったリュックが空になるまでは居て欲しいのだ。残念ながらフミオさんは翌朝家を出た。家族6人の食いっぷりに恐れをなしたのだろう。特に男の子三人が凄かった。感激の対面もあっけなく終わった。現実はドラマとは違う。

金王町を含む青山7丁目付近は焼野原になったが、広大な敷地に建つ青山学院は一部破壊されただけだった。近所の梨本宮邸跡地は荒れ放題だが子供たちの冒険広場と化していた。一度だけだが変な小父さんが現れて拳銃をを見せてくれたりして子供たちの冒険心を煽った。ただ凄いと思っただけで疑問はわかなかった。

当時の子供たちの名誉のために付け加えるが、全員が家の仕事を手伝っていた。周辺は大工、鳶、建具屋、ペンキ屋等の職人の町だが酒屋、魚屋等の商店もあった。スマホもテレビもない時代には働いていても遊ぶ時間をちゃんと作れたのだ。

広大な敷地の長井邸はスケールが桁外れな庭を持つ豪邸だった。後で知ったことだが、土地面積は現在の渋谷2丁目の半分近くに及んでいたそうだ。子供たちは持ち主が住んでいることも気にしないで庭に侵入して遊んでいた。時々白髪の老人に見つかり叱られたが懲りずに遊んでいた。

その他、明治神宮、外苑、金王八幡神社、氷川神社等、緑がいっぱいあった。それだけではない。焼け跡に小さなバラックしか建てられない被災者は空き地の全てを畑にした。もちろん食料目当てだが花も咲いてくれる。

所々に大きな麦畑があった。子供たちは麦の実を取ってチューインガムの様なものを作って遊んだ。長く噛んでいるともみ殻とガムに別れて来るので、水道水でもみ殻の部分を流し落とすガムが出来上がる。噛んでいる内に粘りが出てくるのが面白かった。

食料事情は最悪だったので空地の全てが畑になった。よそ様の土地を無断で畑にしても文句を言われない世の中だった。我が家は向かいの空き地で野菜などを作っていた。2,3年たつと所有者が塀で囲ったので入れなくなった。このようにして食糧事情の改善に応じて畑は少しずつ減って行った。

卵は最も貴重な栄養源だったのでニワトリを飼い卵を当にしていたが、なかなか生んでくれない。暮らしが少し楽になると、たまにしか卵を生まないニワトリを飼うのが面倒になって来た。結局、畑を取り上げられニワトリを処分して我が家の戦後は終わった。浮いたり沈んだりを繰り返しながらも暮らしはだんだん楽になった。

「我が家にはニワトリをさばける人が居ないので近所の小母さんに頼みました」
「食べたいのに殺せない?」
「小母さんは首をキュッと締めました」
「そうかい」
「締めるとき可哀そうと言ったんですよ」
「小母さんカンカンになって怒ったろう」
「よく分かりますね」
「その話は前にも聞いたよ」

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【2016/01/16 00:00】 | 照る日曇る日
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水道水が使えて良かったです
路傍の石

戦中、戦後を思うと、食べ物は大切にしなければいけませんね。
作り過ぎて、食べ飽きたから捨てるなんて、
言語道断!

麦の実からチューインガム様のものが出来るなんて、
初めて知りました。
試してみたい気がします。

チューインガム
PP
無ければ無いで、いろいろ考えるものですね。
麦のチューインガムは誰が始めたか知りませんが、
学校中で流行りました。
塵も積もれば山となると言いますから、
皆でやれば量もバカになりません。
今、考えると麦畑の所有者は怒っていたでしょうね。

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この記事へのコメント
水道水が使えて良かったです

戦中、戦後を思うと、食べ物は大切にしなければいけませんね。
作り過ぎて、食べ飽きたから捨てるなんて、
言語道断!

麦の実からチューインガム様のものが出来るなんて、
初めて知りました。
試してみたい気がします。
2016/01/18(Mon) 18:13 | URL  | 路傍の石 #-[ 編集]
チューインガム
無ければ無いで、いろいろ考えるものですね。
麦のチューインガムは誰が始めたか知りませんが、
学校中で流行りました。
塵も積もれば山となると言いますから、
皆でやれば量もバカになりません。
今、考えると麦畑の所有者は怒っていたでしょうね。
2016/01/18(Mon) 20:30 | URL  | PP #-[ 編集]
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