朝食はテレビを消して話しながらとる。 「朝の食卓」の話題は近所の中島公園、健康、そして札幌シニアネット(SSN)、カラオケ、歩こう会など。
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世界は広いと思う。それなのに私は8畳足らずの狭い部屋の中で殆どの時間を過ごして居る。「ご飯だよ」と言われて食べに出る、「お風呂いいよ」と言われて浴室に行く。自主的に行くのはトイレくらいかな。外出は中島公園と札幌市内だけだ。それでも満足して自分は幸せ者と思っている。

こんな私がもっと広い世界を知ったらどうなるだろう。少し怖いような気がする。自分が井の中の蛙であると自覚するかも知れない。そんなことはあってはならない。幸せと思っているから閉じこもっていられるのだ。もし不幸と感じるなら動き回わらなければならないだろう。そんなことはごめんだ。広い世界など見たくない。

QPが3泊4日の旅に出た。これは私が4日間の自由を与えられたことを意味する。この間、我が家は独り占め、私の世界が10倍に広がるのだ。これは一種の異常事態だ。なぜなら、二人とも旅行をしないので滅多に一人になることはない。10年くらい前から何となくそうなった。

二人暮らしは総じて楽しいが我慢も必要だ。例えば、いつでもテレビを観れる自由とか、トイレを開けっ放しにする自由がない。待てば海路の日和あり、自由を満喫する為のチャンスに恵まれた。飛んだり跳ねたりして喜びを表したいところだが、ここは共同住宅である。出来ない私はふるえながら静かに歩き回っていた。

日常生活で不必要なものとしてトイレのドアがある。換気も好く臭い対策は万全だから臭くもない。それに暴飲暴食をして胃腸を苛めない限りウンチは臭くならない。悪臭は大食いに対する胃腸の復讐だ。嫌がらないで自らを反省すべきである。

ついでにうんちくを一言、「ウンチは天地の恵みが身体に染み込んだ、その証しのお便りなんだよ」とか申す人がいる。ウンチ様がお出ましになったら「神様、大きなお便りをありがとう」と感謝すべきと言う。汚いとか思って神様の大切なお便りを卑しめてはいけない。罰が当たるそうだ。

QPが習字を習っていて真面目に練習するのは好いことと思う。しかし家中のアチコチに自分の書いたモノを張り付けるのはいかがなものか。玄関には「愛」、廊下には「和」そして、トイレには前述の「大きなお便りありがとう」などだ。因みに小さなお便りはオシッコ。多分著名な方が書いた文章の丸写しと思う。

話しは戻るが、もしトイレにドアがなければドラマの途中で出したくなっても、音声を聴きながら出すことができる。テレビの向きを変えれば観ることさえ出来るのだ。終わった後も不衛生なドアノブなど握る必要もない。設備の整った清潔な洗面所に行って手を洗う方が気持ちがいいだろう。

考えてみれば、生活の利便性以外にプライバシーや躾の問題もある。お客様が来たり、子供が居たり、三世代で住んでたり、いろいろな状況に対応する為には、ドアそのものは必要と思う。しかし、必要がないのに閉めるのは行き過ぎと思う。

せめて、一人暮らしの時だけでもトイレを開けっ放しにして解放感を楽しみたい。豪邸でも建てない限り叶わぬ夢が、一人暮らしになれば叶うのだ。閉めっ放しにしておくなんて勿体ない。今の私にはQPが泊りがけで出かけた時くらいしかチャンスがない。

せっかく自由になったのだ。他に何か好いことないだろうかと思って調べると、たった86㎡の我が家だがバス・トイレ・玄関を含めると9部屋もあることが分かった。窓だって7ヵ所もある。外を眺めながら家の中で散歩が出来るのだから素晴らしい。

それに引き換え、QPとの二人暮らしはどうだろう。与えられているのは8畳足らずの部屋と窓一つ。ずいぶん狭い所に押し込まれていたものだ。狭いながらも楽しい我家と思っていたが、4日間の自由な暮らしで、少しばかり広い世界を知ってしまった。危険地帯に一歩ふみ込んだのかも知れない。

留守番で家中を歩るき回って散歩するのも二日で厭きた。自室に閉じこもるのが一番いい。部屋が狭ければ狭いほど自分が大きく感じられる。ちっぽけな人間になどになりたくない。今年で後期高齢者、状況が変われば楽しみも変わる。今は何となく偉くなったような錯覚を楽しんでいる。カネなし知恵なし力なし、だけど幸せ。


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【2015/08/01 00:00】 | 愚かな私
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