自分が何が出来るかいつも考えている。スポーツ、アート、ゲーム等、何をやってもダメ。おまけに虚弱体質でちょっと無理をすれば直ぐ倒れる。それでも自分がダメな人間と思ったことは一度もない。いつも自分が何を出来るか考えている。つまり往生際の悪い人間である。
今考えているのは中島公園データペース。先ずはデータの収集だ。対象は21世紀のデータ。たまたま2001年に中島公園の近くに転居したのでそういうことにした。その後、中島公園を歩き回り、写真を撮っている。この目で見たことを年月日と写真付きで記録して置くことにしたのだ。
例えば「護国神社から中島公園に向かうリスを見た」とか他愛のないこと。そんなことでも一つのデータとして集積し続ければ立派な資料になる。あとは郷土史、都市公園、データ解析等の専門家に任せればよい。素人の私はひたすら自分の足と目を使ってデータを集積する。
データは誰でも持っている。そのほとんどは個人の頭の中にあって寿命と共に墓場に入ってしまう。これでは勿体ない。それにデータは蓄積できる。つまり無駄になることが無い。しかし情報化社会以前だったらデータが多すぎたら解析できない。これからは違う。大きいからと言って持て余すことはなくなるだろう。情報化社会が続く限りデータを残せば有効に使ってもらえるのだ。私はこう考えている。
何の役に立つとか考えるのは将来の人。その必要性を感じるのも将来の人であって私が考えることではない。ただ将来必ず役に立つと信じて蓄積し続けることにした。これが私の出来ることである。もちろん信じ込むにはそれなりの根拠がある。それについては別の機会に書きたいと思う。
毎月第二及び第四土曜は「小説モドキ」の更新です。
次は2月14日(土)です。よろしくお願い致します。
今考えているのは中島公園データペース。先ずはデータの収集だ。対象は21世紀のデータ。たまたま2001年に中島公園の近くに転居したのでそういうことにした。その後、中島公園を歩き回り、写真を撮っている。この目で見たことを年月日と写真付きで記録して置くことにしたのだ。
例えば「護国神社から中島公園に向かうリスを見た」とか他愛のないこと。そんなことでも一つのデータとして集積し続ければ立派な資料になる。あとは郷土史、都市公園、データ解析等の専門家に任せればよい。素人の私はひたすら自分の足と目を使ってデータを集積する。
データは誰でも持っている。そのほとんどは個人の頭の中にあって寿命と共に墓場に入ってしまう。これでは勿体ない。それにデータは蓄積できる。つまり無駄になることが無い。しかし情報化社会以前だったらデータが多すぎたら解析できない。これからは違う。大きいからと言って持て余すことはなくなるだろう。情報化社会が続く限りデータを残せば有効に使ってもらえるのだ。私はこう考えている。
何の役に立つとか考えるのは将来の人。その必要性を感じるのも将来の人であって私が考えることではない。ただ将来必ず役に立つと信じて蓄積し続けることにした。これが私の出来ることである。もちろん信じ込むにはそれなりの根拠がある。それについては別の機会に書きたいと思う。
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