朝食はテレビを消して話しながらとる。 「朝の食卓」の話題は近所の中島公園、健康、そして札幌シニアネット(SSN)、カラオケ、歩こう会など。
これまで拙い雑文を読んで頂き有難うございます。体調の都合で少しお休みします。実は14日の夕方から腰が痛くて立てなくなりました。17日にタクシーに乗って、やっと医院に行きました。レントゲン撮ったりして調べましたら何ともないと言われました。

歩けるようになったから診てもらいに行ったのですから何ともなくて当然です。しかし立てないということは思った以上に不便です。最初に困るのがトイレ、これはかなり大変です。尿瓶などあっても使えません。痛くて姿勢を変えられないのですから。飲食はたいしたことありません。三日ぐらいは水だけで充分。食欲もわきません。

前にもあったし、次に起こると困ります。しかし何ともないのですから医療で直すことはできません。だからと言って立てないと何もできません。それで自分で工夫することにしました。リハビリとかいろいろありますが、ここには、このブログに関することだけを書きます。

当分、このブログの更新を休みます。パソコンの前に座って居る時間を減らすのが目的です。他にもいろいろありますが、対策の一つです。どんな小さなことでも立つことに役に立つのならばやります。立てなければ歩けませんからね。お医者さんから見れば三日で立てる人は病人ではないようです。

一方私は、やりたいことが山ほどあります。どれもこれも大したことではありません。例えば英語で歌いたいとか、そんなレベルの話ばかりです。だけど三日立てないのは大損害です。絶対に常に立って歩きたいのです。毎日ですよ。例外無し!

このような訳で、このブログの更新は体調が完全に快復するまで休みます。何よりも立って歩くことを優先します。たとえ三日でも寝たきりにはなりたくないのです。今まで読んで頂き有難うございます。快復すれば再開します。勝手ですが、その節はよろしくお願い致します。

7月2日加筆 セカンド・オピニオン
ブログを止めても痛いのは治りません。レントゲンを見ても異常ありません。何ともありませんと言われても痛いところは痛いままです。良いことを考えつきました。今流行のセカンド・オピニオンです。

別の病院で診てもらうとMRIを撮って見せてくれました。腰椎間板ヘルニアが原因の座骨神経痛と説明してくれました。この薬を飲めば2か月で完治するとも言ってくれました。MRIとは素晴らしいですね。レントゲンよさらばです。

霧が晴れてきました。やっとこ明るさが見えてきたのです。状況によって痛むけれど避ける方法を見出しているし、ゆっくりなら歩けるので日常生活に支障はありません。もともと家事など何もしていなかったので外出が減るだけです。世の中何が役に立つか分かりません。口だけは達者だから食えるし喋れるしカラオケも出来るのです。カンラカラカラ、下手の横好きに救われました。

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【2016/06/25 00:00】 | 照る日曇る日
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再開お待ちしています
朱庵
何時も楽しく拝読しておりますが、お辛いことは、痛いほど(経験者なので)わかります。
ご自分の納得されるようなさるのが一番。
その上での再開、心からお待ちしています。


有難うございました
PP
長い間、拙い駄文を読んでくださり有難うございました。
お陰様で書くことを楽しむことができました。
しかし、これも健康あっての話しだなと思いました。
体調に悩みがあると書こうという勢いがなくなってしまいます。
休んでいる内にエネルギーが溜まってくるかも知れません。
その節はよろしくお願い致します。

霧が晴れて良かった!
路傍の石
ブログのお休み、ビックリしました。

セカンド・オピニオン受けて正解でしたね。
時間はかかっても薬で完治するご様子、良かったです。

気長に療養され、その間に引出しを満たし、
またユーモア溢れるエッセイで笑わせて下さい。

お待ちしています。

有難うございます
PP
病院変えて好かったです。
1年近くもも無駄なリハビリしていたものだと思いました。
もちろん一生懸命だったリハビリの先生には感謝しています。
お医者さんにも感謝しています。MRIもないのに仕方ないです。
5年くらい前に受けていて異常なしだったので、
受けても仕方ないと勝手に判断していました。
5年の間に身体が変化というか、悪くなっていたのですね。

このブログは書きたくなったら又、書きたいと思います。
その時はよろしくお願い致します。



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みっともないことは思い出したくないから歌と英語の話はしたことがない。ところがある出来事がきっかけでタガが外れた。それからは折に触れて話題にしている。幼児と高齢者は下手の横好きも許されるかも知れない。幼児は成長の為、高齢者は健康の為になる。理屈はともかく、どんなことでも自由に話せれば楽しい。

最近になって洋楽カラオケを始めたが私の場合は、英語も日本語(カタカナ)も変だ。残念ながら修正不可能なので気にしないことにしている。歌も英語もスポーツも体内における情報伝達の役割を担う神経の影響が大きいと思う。多分その辺に問題があるのだろう。簡単に言えば反射神経が鈍いのだ。

若い時の話だが肉体労働ではやって行けなくなったので「趣味の英語」で転職できないかと、航空管制官試験を受けたら運よく合格した。当時は東京オリンピック目前だから英語の出来る人には職がいっぱいあり、待遇の悪い管制官の試験などを受ける人は少なかった。お蔭で辛い労働から解放されてホッとした。

羽田(東京)での教育訓練中に、この仕事は難しすぎると思った。口が回らず反射神経も鈍い、オマケに英語教育も受けていない。それでも止めようとは思わないのは、肉体労働がいかに辛いかは骨身に染みていたからだ。どこか私でも働ける場所がある筈だと一所懸命調べたらあった。それは北の都のO空港。空港とは名ばかりで実質的には陸上自衛隊第X飛行隊が使用する飛行場である。

民間機は日本国内航空の定期便等がホンの少し、残りの90%は陸上自衛隊の軽飛行機とヘリコプターだ。パイロットは99%日本人、しかも90%はO空港を本拠地とする陸上自衛隊機である。だから苦手な英語は必要ないのだ。英語を簡略化した管制用語だけで仕事はできる。複雑なことは日本語で話せばすむのだから何の不安もない。

陸自機は殆どが同じ飛行隊に属す軽飛行機だから秩序正しく飛んでくれる。しかもユックリと。こんな有難い職場は日本中でここ一つしかない。あっても自衛官しか勤務出来ないから航空局の職員では行くことが出来ない。一生、ここに居ようかと思ったが、そうは行かなかった。穏やかな暮らしは1年半で終わった。普通の管制施設に転勤になったのだ。もちろん英語も敏捷性も必要だ。しかも忙しい。

虚弱体質だから肉体労働は出来ないし転職する為に必要な技術もない。止められない以上は真面目にコツコツと努力するしかない。疲れる、ノロマ、出来ないは禁句。真面目な人と評価された。しかし敏捷性が求められる仕事だから認められることはない。野球に例えれば万年二軍の状態だ。退職の日を夢見て真面目に勤め、全力で頑張った。本当は楽をしたい怠け者なのに、不本意ながら仕事一筋?

退職して気分がとても楽になった。ある時に初めて「私はノロマだ」と言ってみたら、気分がとても楽になり、それを言うのが癖になってしまった。次は「虚弱体質宣言」、この二つの言葉を発したら心が解放された。何となく幸せを感じて嬉しかった。苦手なことを出来るふりする偽りの人生は終わったのだ。

2009年のことだが、北海道新聞から『朝の食卓』と言うコラムを書くことを頼まれた。その時、執筆者略歴に必要なので職業を知らせるように言われた。公務員と書いたら職種を問われたので航空管制官と書いた。退職後、元の職業を言ったのは初めてだった。これがキッカケとなり過去に関する拘りから解放された。

拘りとは情けない過去を完全に葬ることだった。退職を人生のスタートとする為に、過去を忘却することに拘っていたのだと思う。10年ひと昔と言うが本当だと思う。今は何の拘りも無い。一切の拘りが無くなり、自分に素直になれた。

何だか子供の頃に戻った様な気がする。少年時代の些細な出来事まで脳裏に浮かぶ。記憶は定かでないが、アメリカ民謡で「峠の我が家」と言う曲だったろうか? 英語で歌いたいからカナふってくれと、兄に頼んだら、「カタカナは日本語だ」と断られた。こんなことさえ懐かしく思い出だす。

今も同じようなことをしている。否、もっと悪いかも知れない。在職中に一生懸命英語らしくしようと思って回らない口を無理に回したので、日本語(カタカナ)でも英語でもない妙な発音になってしまった。40年もかけてついた悪い癖は修正不可能だ。こうなったら何もかも今のままでいいと思うより他はない。年を取ることは有難い。自分を含め、誰でも何でも肯定できるようになる。 これでいいのだ!! 天才バカポン

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【2016/06/04 00:00】 | 照る日曇る日
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路傍の石
「趣味の英語」で生涯の職を得たのですから、
「下手の横好き」と仰るのはきっと謙遜なのでしょう。

自分がとても気にしていることを、他人はそれ程気にしていないってこと、
ありますよね。

>兄に頼んだら、「カタカナは日本語だ」と断られた。

思わず 「フフフ」・・・
PPさんの文章は楽しい!



お陰様で趣味の世界に戻れました
PP
英語も一人で好きだ、趣味だと言っている内は楽しかったのです。
仕事に就いたら全く向いていないことが分かりました。
それからは真面目一筋、ふざける余裕はありません。

お陰様で好きだ趣味だ、の世界に戻ることが出来ました。
思わず 「フフフ」・・・は嬉しいですね。
笑ってもらいたくて書いていますから。


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身体にいいことしてますか? そんなこと全く気にかけない私だが、結果的に身体にいいことをしてしまった。その代り、自分が本当にやりたいと思っていたことは何一つ出来るようにはならなかった。

それは何かというとパソコンの習得であり、もう一つは人並みに歌えるようになることである。両方とも本来の目的は達成できなかった。しかし、その副産物は極めて大きかった。私は知らず知らずのうちに健康に凄くよいことをやっていたのだ。

恥ずかしながら、カラオケをやり始めた。下手な横好き、もっと言えば音痴の横好きである。ところが健康の為にとても良いことが、後になって分かった。恐る恐る歌う私に、ある人が健康にいいから思い切り歌いなさいと言った。半信半疑の私はネットで調べてみたら、その効用があらゆる分野に及ぶのでビックリした。

ダイエット、ストレス軽減、消化機能、冷え性、腰痛、精神の安定、脳の活性化、認知症の防止、高血圧の改善、さらに小顔効果まであると言うのだから驚きだ。

「小顔効果って何だよ」
「歌う時に表情筋といわれる多くの筋肉が働くのです」
「表情筋って何だ」
「口輪筋、頬筋や眼輪筋、前頭筋などです」
「そうかい」
「歌いながら顔全体を動かせば小顔体操になるのです」
「顔が小さくね~?」
「しっかりと口を開けて歌うことが大切です」
「ホ~」っと、感心するのを見て思わずどや顔になる。
「でかいツラするな!」

75歳の後期高齢者だが認知症、高血圧、腰痛等、健康上の悩みが全て解消されるのだ。残念ながら音痴が治るとは書いていない。まあいいか、大したことではない。

ところでパソコンの習得だが、始めたの1980年のことだった。値段は当時の月給の二倍以上した。「新しい物好き」だから無理をして買ったのだ。あれから36年、今ではパソコンのことはサッパリ分からない。その代り健康の為に大きな役割を果たしてくれた。今、生きているのはパソコンのお蔭と思っている。

当時の職場では100人ぐらいが一緒に働いていた。その中で酒に弱いのに飲み過ぎる者が三人いた。一人は酒で命を失い、もう一人は遠くに行って禁酒した。残った私は「札幌もいわ断酒会」への入会を検討していた。

そんな時に仙台空港の近くにある航空保安大学校岩沼分校への転勤の打診があった。もちろん渡りに船とばかりに喜んで応じた。酒を断つには環境を変えるのが一番と思ったからだ。

先ず、夕方になったら酒を飲むという習慣を断ち切らなければならない。酒に弱いから2時間程度で泥酔状態に陥り、意識を失ってから昏睡をするような感じで寝る毎日だった。酔いが脳内に染み渡ると何も見えなくなり全てを忘れ、何とも言えない好い気持になった。そうなると酔いが脳まで達しないと満足できなくなる。

酒が切れても手が震えないからアルコール依存症ではないと思っていた。しかし、その一歩手前の様に感じるのだ。「朝っぱらからいい臭いしてるな」と、いつも皮肉混じりに言われていた。二日酔いを気にして夜10時には寝るのに酒が残るのだ。

転勤先の航空保安大学校には、当時珍しいパソコンがあったが誰も使う人が居ない。もったいないから、それを使って操作方法の練習をした。しばらくすると自由に使いこなす為には自分で持つ必要があると思うようになった。

1980年代はパソコンを買った人の6割は、習得を諦めたと言われている。安月給の私は月給の二倍もしたパソコンを埃をかぶったままにしておく訳にも行かない。夕食時の酒はビール小瓶1本に制限し、夕食後はパソコン習得の時間とした。

紆余曲折はあったが15年くらいすると、職場で使う統計作業を自動化することが出来るようになった。電卓と帳面で丸一日かかる作業を5分で出来るようにした。例外処理が多いのでシステム化は困難と言われていた作業だった。

しかし、そこがピークだった。素人がプログラむを組む時代ではなくなったのだ。プロが作ったソフトをメニューを見ながら操作する時代になったのである。2000年あたりから徐々にパソコンが分からなくなり、数年後には何も分からなくなった。今ではおっかなびっくり腫れ物に触るようにしてパソコンと付き合っている状態だ。

だが大きな成果を残してくれた。夕食後の深酒を止めてパソコン習得に精を出したお蔭で酒を飲む習慣から完全に開放された。家では特別な行事を除き一滴も飲まない。外では付き合い酒だけ。カラオケでは「恥忘れ薬」として少量飲んでいる。

不思議なものでパソコンの習得と言う本来の目的は、果たせなかったが、深酒の習慣を完全に断ち切ることが出来た。これは私の人生において最高の成果である。今、生きているのはパソコンのお蔭と感謝している。虚弱体質だが倒れずに暮らしが成り立っている。それで充分だ。

昔はパソコンに命を救われた。そして今は、カラオケで余命を延ばしている。パソコンも歌も苦手だが、しっかりと役に立っている。両方とも出来るようにはならなかったが、身体の為に良い結果をもたらしてくれる。

生きることは実に面白い。この先どんなことがあるか楽しみだ。楽しみの種をアチコチに蒔いているが一体どれが芽生えるか。それも楽しみ。生老病死のうち残りは病と死だけ。せめて病に至るまでは皆と一緒に楽しく過ごしたい。

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【2016/05/28 00:00】 | 照る日曇る日
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そよ風
今迄書かれていたブログを少しずつ読ませて頂いています。
カラオケの方は歌をお聴きした事がないので音痴かどうか判りませんが、パソコンの方は文章も写真もお上手だし中々堪能でいらっしゃいますよ。
自信を持って下さい。
カラオケって色んな効能?があるんですね。
初めて知りました。
私も早速カラオケを始めましょうか。

読み書きソロバン
PP
ブログを読んでくれて有難うございます。
カラオケは私も知らなかったのですが、いろいろ効能がありますね。
効き目、感じてますよ。始めましょう。
パソコンは道具ですから苦手なりに付き合います。
昔で言えば読み書きソロバンですから仕方ないです。
励ましのお言葉有難うございます。



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東京砂漠と言う言葉があるのなら、私が育った渋谷区金王町はオアシスかも知れない。緑いっぱいで水も豊かだった。しかし、育ったころは終戦直後、極端な食糧不足で子供たちの多くは栄養不良でやせていた。焼け跡にもいろいろあって山の手と下町とは違う。渋谷、特に青山周辺は緑が豊かだった。

焼夷弾による空襲で地表は焼き尽くされてはいたが、地面の下は無傷のようだった。つまり水道管のほとんどが残っていたのだ。こんな訳で水と緑には不自由しなかった。一方、食べられるものは緑のホンの一部であることを思い知らされた。

住民の住むバラックの一つひとつに水道を引く余裕はない。無事だった水道を付近の人が共同で使う。だから水道は必ず外にある。それを家までバケツで運ぶのだ。食器洗いや洗濯などは水道のそばでするので、主婦たちの井戸端会議の場となった。当時は食料不足なのに水が豊富だから「水っ腹」という言葉が流行っていた。

「前回に荷馬車の話をしましたが、馬だけじゃありません。山羊もウサギもいましたよ。ニワトリなんか、ほとんどの家で飼っていました」
「それでも食料不足か。信じられんな」
「人口の急増です。戦争が終わったら途端に2倍以上。考えられますか?」
「食べ物が無いのに何で来るんだ」
「満州とか外地から帰る人、疎開先から帰る人、何も知らないで東京に行けば何とかなると思っている人」
「そんな人が居たのか」
「我家がそうでした」

敗戦での混乱のなかでは、正確な情報など入って来ない。渋谷区の人口は1945年6月には空襲等の影響で4万6千人までに減っていたが、終戦後の翌春には10万人を超えている。1年もたたない内に人口は2倍以上に激増したのだ。当然一人当たりの食料は激減。私は不思議に思っている。子供時代は死の恐怖に怯えていたのに、なぜ年を取った今、ノンキに暮らせるのだろう。

ある日家の前に大きなリュックを背負った髭面の復員兵が立っていた。その人は母を見ると「叔母さん」と言ったきり声をつまらせて泣いた。母は「フミオさん無事だったのね」と言って抱きついた。後で母の姉の長男だと言うことを知った。「姉さんまだ満州から帰って来ないんだよ」と母。その後何を話していたかは覚えていない。

リュックの中には食料がいっぱい入っている様だ。その日は乾パンと金平糖を腹いっぱい食べて寝た。夜中に目が覚めると話し声が聞こえた。母とフミオさんだ。
「姉さんが満州から帰るまでウチで待ってたら」
「狭くて寝る場所がないでしょう」
「建て増しすれば寝床くらい作れるから」と母は一生懸命引き留めている。

増築と言ってもホームレスが仮小屋を作るようなもので、寝場所を作るだけだった。同室の5人家族が期待しながら二人の話の成り行きに聞き耳を立てていた。少なくとも食料の入ったリュックが空になるまでは居て欲しいのだ。残念ながらフミオさんは翌朝家を出た。家族6人の食いっぷりに恐れをなしたのだろう。特に男の子三人が凄かった。感激の対面もあっけなく終わった。現実はドラマとは違う。

金王町を含む青山7丁目付近は焼野原になったが、広大な敷地に建つ青山学院は一部破壊されただけだった。近所の梨本宮邸跡地は荒れ放題だが子供たちの冒険広場と化していた。一度だけだが変な小父さんが現れて拳銃をを見せてくれたりして子供たちの冒険心を煽った。ただ凄いと思っただけで疑問はわかなかった。

当時の子供たちの名誉のために付け加えるが、全員が家の仕事を手伝っていた。周辺は大工、鳶、建具屋、ペンキ屋等の職人の町だが酒屋、魚屋等の商店もあった。スマホもテレビもない時代には働いていても遊ぶ時間をちゃんと作れたのだ。

広大な敷地の長井邸はスケールが桁外れな庭を持つ豪邸だった。後で知ったことだが、土地面積は現在の渋谷2丁目の半分近くに及んでいたそうだ。子供たちは持ち主が住んでいることも気にしないで庭に侵入して遊んでいた。時々白髪の老人に見つかり叱られたが懲りずに遊んでいた。

その他、明治神宮、外苑、金王八幡神社、氷川神社等、緑がいっぱいあった。それだけではない。焼け跡に小さなバラックしか建てられない被災者は空き地の全てを畑にした。もちろん食料目当てだが花も咲いてくれる。

所々に大きな麦畑があった。子供たちは麦の実を取ってチューインガムの様なものを作って遊んだ。長く噛んでいるともみ殻とガムに別れて来るので、水道水でもみ殻の部分を流し落とすガムが出来上がる。噛んでいる内に粘りが出てくるのが面白かった。

食料事情は最悪だったので空地の全てが畑になった。よそ様の土地を無断で畑にしても文句を言われない世の中だった。我が家は向かいの空き地で野菜などを作っていた。2,3年たつと所有者が塀で囲ったので入れなくなった。このようにして食糧事情の改善に応じて畑は少しずつ減って行った。

卵は最も貴重な栄養源だったのでニワトリを飼い卵を当にしていたが、なかなか生んでくれない。暮らしが少し楽になると、たまにしか卵を生まないニワトリを飼うのが面倒になって来た。結局、畑を取り上げられニワトリを処分して我が家の戦後は終わった。浮いたり沈んだりを繰り返しながらも暮らしはだんだん楽になった。

「我が家にはニワトリをさばける人が居ないので近所の小母さんに頼みました」
「食べたいのに殺せない?」
「小母さんは首をキュッと締めました」
「そうかい」
「締めるとき可哀そうと言ったんですよ」
「小母さんカンカンになって怒ったろう」
「よく分かりますね」
「その話は前にも聞いたよ」

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【2016/01/16 00:00】 | 照る日曇る日
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水道水が使えて良かったです
路傍の石

戦中、戦後を思うと、食べ物は大切にしなければいけませんね。
作り過ぎて、食べ飽きたから捨てるなんて、
言語道断!

麦の実からチューインガム様のものが出来るなんて、
初めて知りました。
試してみたい気がします。

チューインガム
PP
無ければ無いで、いろいろ考えるものですね。
麦のチューインガムは誰が始めたか知りませんが、
学校中で流行りました。
塵も積もれば山となると言いますから、
皆でやれば量もバカになりません。
今、考えると麦畑の所有者は怒っていたでしょうね。

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私にとってワシントンハイツとは戦後に突如として現れたアメリカン・ドリームの世界。それは渋谷区代々木に建設された合衆国空軍ワシントンハイツ団地のこと。そこには今のNHK放送センター、代々木公園、国立代々木競技場等の風景を全て飲み込む巨大米軍施設があった。明治神宮内苑に隣接したアメリカ村は、終戦1年後の1946年に建設され東京オリンピック開催の1964年に返還された。

歴史的には私が6歳のとき完成したのだが、その存在に気づき、憧れるようになったのは10歳の頃と思う。金網のフェンスの外から中を見て、カラフルな夢の世界に圧倒された。そこでは金髪が印象的な米人家族が夢のような暮らしをしていた。その風景に感化されたのか、私はいつの間にか洋画ファンになっていた。現実には絶対に体験できない世界を映画の中に求めていたのだろう。

少年時代の繁華街のイメージは華やかな銀座、新しい新宿、古の浅草、そして場末の渋谷だった。区民は復興から取り残された自らの居住地を卑下し、そう呼んでいた。それがワシントンハイツの返還をきっかけに急速に発展した。今ではそこに、私にとってはテレビでしか見たことのない華やかな渋谷がある。振り返って考えれば、米軍施設が渋谷の復興を妨げていたのだと思う。

「渋谷は焼け跡の中の田舎という感じでしたね」
「焼け跡に田舎も都会もないだろう」
「それがあるんですよ。通学のときは荷馬車の後ろにぶら下がるんですよ。御者の小父さんに怒られても懲りずにやりました。楽だし面白いからね」
「危ないから注意するんだな」
「馬が疲れるからですよ」
「ほ~ぉ」
「凄い剣幕ですよ」
「小父さんは後ろに目があるのか」
「荷を積んでいるから馬も大変なんですよ。一馬力でしょう。馬の動きで直ぐ分かるんですよ。多分」

結局は怒る小父さんの怒号と形相にに恐れをなして止めた。戦後3年くらいまでは、殆どの人が食うや食わずだった。馬が死ねば自分も食えなくなる。馬は大切な財産だから怒る。子等の安全の為ではない自分の生存を脅かさられるから全身で怒るのだ。子供になめられるようでは大人も生きていけない世の中だった。

暮らしがが安定して世の中が平和になると、「昔の大人は叱ってくれた」とか懐かしそうに言う人が出て来た。確かにそのような教育的指導をする大人も居たのだろう。ドラマにはよく出て来るので、それも一つの事実と考える。私の体験とは違うが。

ごく稀なことだが、中学の先生からその様な教育的指導を二回ほど受けた記憶がある。熱い気持ちが伝わり感動したので今でも覚えている。しかしそれは例外に過ぎない。小中学校の先生を含め、ほとんどの大人は怖いだけの存在だった。毎日の「仕事」は怖い大人からの攻撃をかわすこと。それに尽きた。そうしなければ弱い子は潰されてしまう。これも生活の知恵だ。

「お前は確か東京渋谷の育ちとか言ってたな」
「そうですよ。5歳から15歳まで、その後は23歳まで東京から出たり入ったりです」
「そして25歳からはほとんど北海道」
「途中、2回ほど転勤で離れただけです」
「渋谷時代の話だが、嘘もほどほどにしろよ」
「大筋において事実を書いているつもりです」
「何で電車やトラックが走っている渋谷に馬車が居るんだよ」

戦争は何もかも破壊する。燃料も食料も極端に不足し、戦後の一時期は荷馬車も再登場した。坂道になると乗客が降りてバスを押す世の中だ。前世紀の遺物が登場しても不思議ではない。使えるものは何でも利用した。

当時の木炭バスは力が弱く坂では難儀した。その一方ではアメリカの乗用車が颯爽として走っていた。渋谷は最先端の文明と明治時代の貧しい部分が共存していた。今になって考えると、広大な敷地に造られたワシントンハイツの存在が10歳の私の成長に大きな影響を与えたと思う。手に取ることの出来ない夢の世界だが。

金髪をなびかせた女性が運転する赤いキャディラックが走り、同じ道路をパカパカ歩く荷馬車も通る。否応なくその差を見せつけられた。オマケに住んでいるのは焼けトタンの粗末なバラックだ。楽しみは街をぶらつくくらいだ。宮益坂を歩いて下り右折すると渋谷区役所があり、その近くからワシントンハイツが広がっていた。

渋谷公会堂で無料の浪曲を聞き、ワシントンハイツに行く。そして金網の中を見ると、そこは浪曲とはガラリと違う夢の世界だ。グリーンの芝生にしゃれた住宅、赤、白、グリーンの乗用車、子供たちが模型飛行機を飛ばして遊んでいる。禁断の場所は文明の国、アメリカのショーウインドのようだった。遠い異国に憧れた私に出来ることはワシントンハイツの金網にへばりつくことと洋画を観ることだけだった。

「憧れとは不思議ですね。現実感がまるでないのです」
「いいなあと思っても別世界」
「そうなんですよ。もし行けるとしたら夢の中」
「何にもならんな」
「そうでもないですよ」
「なんで?」
「空想するにもネタが無いとできません」
「そりゃそうだ。小説家じゃあないからな」
「ワシントンハイツとアメリカ映画が絶好のネタになってくれましたよ」
「空きっ腹かかえて空想か」
「全てはです色即是空、空即是色(しきそくぜくう、くうそくぜしき)
「何でも食いたい。全てを食うだろう」

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【2016/01/09 00:00】 | 照る日曇る日
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焼け跡闇市派を自認する野坂昭如氏が亡くなった。戦争を知る人を次々と失い寂しい、と言うよりも次第に不安が募ってくる。終戦当時は子供だった。闇市で物を買う余裕のない私は、ただの焼け跡派。しかも異常に長すぎた焼け跡暮らしだった。

周りは復興して住宅建設ラッシュが続いているのに、我が家だけが復興から取り残されれ、相変わらずのバラック暮らしだった。安普請とは言え新しい住宅や商店が並んでいる。戦後5年もたつのに私は「焼け跡の子」のまま。近所で唯一のバラックに住んでいることが、とても恥ずかしかった。

多くの人は焼け跡の生活は苦しかったと言うが、近所が復興したのにバラックの子として暮らすのはもっと苦しい。と思ったのは後になってからだ。10歳だった私は、目の前の現実を乗り越えるのに精いっぱいだった。食い物を得ること、危険を避けること、恥ずかしい現実を隠すこと等、直面する問題が山ほどあった。

バラックとは兵舎の意味もあるが仮小屋のこと。終戦直後のバラックは空襲で焼野原となった跡地に建てられた。焼け跡に残った焼トタンや、燃え切らなかった木材などが建材だ。主に焼トタンで出来ているので夏は暑くて冬は寒い。しかも狭い。素人の手作りだから大きいのは無理だ。6人家族で6畳に住んでいた。

横浜で生まれたが戦争が激しくなると疎開で田舎を転々。5歳で東京都S区に転居したが、その頃は皆がバラックに住んでいた。それから4年ほどたつと殆どが新しく家を建て、我が家のある一角だけが得体の知れない人達が住むバラック横丁として残った。ところが、台風が来て他のバラックはペシャンコにつぶれてしまい、幸か不幸か我家だけが残った。

当時、バラック住まいは無気力・無能力を証明するものと思われていた。空襲で焼かれたところまでは皆一緒。普通の人は子供達も含めて一家全員で必死に働き食事まで切り詰めて家を建てた。5年もたってバラックに住んでいる人でまともな人は居ない。そこに住むのは焼け跡の敗残者達。復興競争に敗れた惨めな人々。

差別された記憶はないが、私自身はバラックと親と自分のことを恥じていた。ところで、1950年ごろだが、家から1kmくらいの所のガード下にもう一軒のバラックがあった。そこに同級生が住んでいた。Yという名の女生徒はクラスの仲間外れだった。臭いとか言って誰も近寄らないから、いつも一人ぼっちなのだ。

私も距離をとっていたが、はたから見れば私たち二人は同類で同じ臭気を放っていたと思う。長い間風呂に入らず同じものを着ていれば誰でも臭くなる。だからと言って苛められた記憶はない。私が勝手に恥と思いバラックの子であることを必死になって隠していた。後で考えれば皆知っていたと思う。無駄な努力をしたものだ。

あれから10年たって私も20歳になった。気まぐれな友人Sに誘われてダンスホールに行った。ダンスの得意なSは相手を見つけて踊りまくっている。一人残されて居心地が悪かったが、友人と言うよりSの子分の様な私は怖くて帰ることも出来ない。

ウェディングドレスを簡略化したような白いワンピースを着た女性が一人で立っていた。何となく寂しそう。私にすれば声をかけやすい感じだ。どこかで見たことがある。10年前小学校で同級だった悪臭プンプンのYさんだ。身なりは変わったが顔に当時の面影が残っている。相変わらず孤独で不幸な雰囲気を漂わせている。

声をかけると黙って組んで来た。しかもダンスが上手な人のようにピッタリとだ。私は何も話さないし、Yさんも黙ってステップを踏んでいる。思わず彼女はどのような人生を歩んできたのだろうとか考えてしまった。

孤独で苦しい10年の果が今の姿。東京都S区のダウンタウンにあるダンスホールの片隅に一人っきりで立っていた。昔と違ってサッパリした身なりで、かすかに香水の香りがする。だけど清潔な感じはしないし、ダンスを楽しんでいる様にも見えない。

二人とも知り過ぎていて何も話さない。知っていることは話題として楽しくないことばかりなので話す気がしない。振り返ってみれば小学校も中学も一緒なのに話したことがない。又、Yさんが同級生と話している姿も見たことがない。

ひょっとして障がいで話すことが出来ないのかも知れない。そんなことまで知らないのだ。共通点はただ一つ、戦後5年もたっているのに、二人だけがバラックの子だということ。それだけで何もかも分かったような気がした。恐らくYさんも……。

先日、テレビで観たことだが、硫黄島の戦闘で悲惨な体験をした元米兵の話が印象的だった。彼はこう言っていた。「父が硫黄島はどうだったと聞くので地獄だったと答えると、父は『ニューヨークだって地獄だったよ。物不足で大変だった』と応じた。私は何も話す気がしなくなった」。

人並み外れた悲惨な体験をした人は、そのことを誰にも話せない。理解できる聞き手がいないからだ。子供でも悲惨な体験はする。Yさんが無口なのは自分のことは誰も分かってくれないと諦め切っているからだ。

昔も今も世の中は想像を絶する悲惨な体験をした人の口が封じられ、無意味な成功談で満ち溢れている。それらが悲惨体験をした人々の口に蓋をする役目も果たしているのではないだろうか。

私は時々考える。Yさんは自分のことを誰にも聞いてもらうことなく、あの世に向かって旅立つのだろうか、あるいは既に逝ってしまったのか。人並み外れた悲惨な体験をした人々は何も語らずに逝ってしまう。貴重な体験が身体と共に消え去って行くのがもったいなくて仕方がない。

世の中を良くする多くのヒントが人知れず失われて行くのが残念だ。真実をくみ取る仕組みが欲しい。それが無いのは、世の中が為政者にとっての「不都合な真実」で溢れているからだろうか。

「考え過ぎでしょうか」
「ひねくれてるね」
「似たような人が体操選手に…」
「いるもんか」
「いますよ」
「だれ?」
「ひねくれ王子」

【2015/12/19 00:00】 | 照る日曇る日
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子供たちが希望を持てる世の中に。
路傍の石

戦争を体験していない私に、軽々な事は言えませんが、
人間の身体も心も破壊してしまう戦争は、
二度とあってはなりません。

今の政治が果たして国民の幸せに向かっているのか、
考え始めると怖くなってきます。

まったく同感です
PP
まったく同感です。
子供たちが希望を持てる世の中なら、大人も幸せです。
この20年で顕著なのは大金持ちが増えたこと。
そして、貧乏人が大幅に増えたことです。
選挙で選ばれた人たちがこの世の中をつくったのです。
お金万能の世界は怖い。マネーゲームの横行は怖いです。
良く考えて一票を行使することが大切と思います。

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