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朝食はテレビを消して話しながらとる。 「朝の食卓」の話題は近所の中島公園、健康、そして札幌シニアネット(SSN)、カラオケ、歩こう会など。
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ホワイトロック(札幌シティ・ジャズ)で出合った 素直な若者

ある夏の話だが、「中島公園をジャズの公園に」というイベントが行われた。内外から一流ミュージシャンを呼んで、このテントの中で、音楽を聴いたり食事をしたりして楽しもうという趣向だ。
なんでも国内初の試みだという。先ず、上の写真を見てほしい。「主役」はこの若者である。

「オジサン、おれの写真を撮ったな」
「入っちゃったね~。削除しようか」
「いいよ」
「ホームページ作っているんだ」と言いながら名刺を渡す。
「オジサンは凄いんだな」

若者の素直な反応に、何か後ろめたい気持ちになった。 一瞬 「肩書詐称」という思いが、浮かんでは消えた。名刺には「ラジオなかぱ 番組担当」と麗々しく書いてある。 うそではないが、何か勘違いさせるような内容だ。

一瞬のたじろぎ、一瞬の反省の後に出たのは次の言葉。
「無職だから、いろいろ暇つぶしにやっているんですよ」
「……」
素直じゃないね~。まったく。 
2008/5/4

「やっと80歳になれました。とても嬉しいです」
「分かる分かる。半分だけ元気も 楽じゃない。早く枯れたいよね」
「人間として、もっと成長したいのです」
「なにっ! もう遅いから、あきらめろ」

考えてみれば、ずいぶん狭い社会で暮らして来たものだ。いろいろ転勤もしたが、何処に行っても職場中心の暮らしだ。地域住民と馴染むことはほとんどなかった。言われるまでもなく「井の中の蛙」だ。世間のことは何も知らない。このままで一生を終わるのかなと思ったら心細くなった。 

「世間を知るとは人を知ること」と思う。先ずは身近なところから始めてみたが…。退職したからと言って、掌返すように「さあ、これからは地域と共に」と言ったところで、上手く行くはずがない。地域の壁は厚かった。

「そりゃそうだよ『井の中の蛙』に出る幕はない。どこにもないよ」
「60歳のラブレターって、ご存知ですか?」
「何んだ急に! 気色悪いぞ。いい年して」
「本になるのですから、本当の気持は書けないでしょうね」
「『私は一生あなたに首ったけ』とか書いてあったな。ホンマかいな」
「もし、私にラブレター来たら、どうしたらいいでしょうか?」
「あんたは、よけいな心配するからハゲるんだぞ」
「しかし、亡くなった方への想いには心打たれるものがありますね」
「うん」

38年間の職業生活で身についたのは我慢だけだった。しかし、退職後の解放感はまだ続いている。毎日が楽しい。退職してからは在職時代の100倍以上笑ったと思う。 新しい友達も沢山できた。客観的には友達未満かも知れないが、何処に行っても笑顔に出会えるのが嬉しい。こんな楽しい経験は生まれて初めてのことである。

喜んでばかりはいられない。まだやり残したことがある。しかし、これだけは誰にも言うことは出来ない。心の深淵をさらけだしても、喜ぶ人はいない。 今までの人生では今が一番充実している。しかし、こう言い切ってしまっていいのだろうか。いかにつまらない人生を歩んできたか、告白するようなものだ。

70歳までは、何でも幅広く吸収したいと思っていた。出来るだけ多くの人たちと接して、自分自身の幅を広げたい。失われた38年間をとり戻してみたかった。

「とり戻して、どうなる」
「普通の人になりたいのですね。みんな普通にふるまって仲良くしているではないですか」
「そう言えばあんたは、どこか無理をしているように見えるな。何か不自然だぞ」
「仮面をつけています。『行って参ります』と言って仮面とつけ、『ただいま』と言って外すのです」
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早いもので、同世代の3人でカラオケに行くようになって1年たった。共通点と言えば、カラオケ初心者ということだけだ。1ヶ月に1回、キチンと行っていたが、12月は3人の都合がつかず中止になってしまった。

私達のカラオケは3人で休みなしの3時間だから相当なものだ。身体に染み付かないはずはない。私の身体の中に月に1回、歌いまくるリズムが出来上がってしまった。

「他の人と行けばいいじゃないか。 オレが行ってやろうか」
「実は、事情があって、他人様に私の歌を聴かせるわけには行かないのです」
「なん~だ、オンチか。オレはいいよ。お前の歌なんか聞いてないから」

これには深い訳があるのだが、長くなるので別の機会に譲ろう。ダメで元々と思いながら、D子に声をかけてみると、あっさりとOKした。 もちろん、D子は私の「深い訳」を知っている。全て承知の上のOKだ。何の懸念もない。

「この日がいいね」と言うので、予定表を兼ねているカレンダーの12月7日の欄に「フタカラ」と書き込んだ。 お互いにカレンダーを見ながら、それぞれの予定をたてる習慣になっている。

さて、明日はいよいよ始めての「フタカラ」だなと思って、カレンダーを見ると、「フタカラ」の字に重ねて、二本の線が引いてあることに気が付いた。

「何ですか。この二本線は?」
「さっき、Yさんから電話があって食事に誘われたので、消したの」
「約束破るなら、ひと言いって下さい」
「あら! アンタだって、黙って書くじゃない」
「予定を書き入れるのはいいけれど、消すときはひと言断るのが普通でしょう」
「書くのも、消すのも同じじゃない!」

一度「同じ」と言ったら、いくら説明しても「違う」とは決して言わない。最高裁判所の判決のようなもので、決してひっくり返ることは無い。不本意ながら、黙ってしまった。

「アンタこの人、知ってる。落語家なのよ」
「… … …」
「手が震える病気になったんだって、鳩に豆やろうとして、手のひらに豆のっけたら、手が震えて豆が左右に動くもんだから、鳩が困ってしまったんだって、アハハハハ~」
「… … …」
「面白いね。アハハハハ~」

私が傷ついているのに気が付かない。なんて鈍い人だろう。仕返ししてやろうと思った。私はその落語家の真似をして、手のひらに豆を置いた形で、D子の前に突き出して、手が震える真似をしてやった。

左右に激しく振ってみた。 どうやら反応次第では、ただではすまないと理解したようだ。D子は困った鳩の真似をして、一生懸命首を左右に振った。 
「アハハハハ~」
「ワハハハハ~」

こうして、一触即発の状態は直前に回避された。 
さて、「ノーベル平和賞」はどっちだ!

「どっちもどっちじゃないか」
「そんなことありません。一人で耐えて来た私が受けるべきでしょう。」
「どっちにしてもオレは悪者。その手はくわないよ」
「手は食わないで、豆だけ食べて下さい」
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あのころ私は67歳、シニアネットのお陰で豊かで愉しいシニアライフを送っていた。この喜びを友人にも、お裾分けしてやろうと思い、入会を勧めたら「仕事でもないのに人の中に入って気を使うのはゴメンだね」と断られてしまった。

「おやっ?どこかで聞いたようなことを」と思ったら、5年ほど前の、私自身のセリフではないか。その頃は、せっかく仕事を止めたのだから家でノンビリ暮らそうと思っていた。しかし、そうは問屋が卸さなかった。1年もしない内に、D子に邪魔にされ、無理やり「老人福祉センター」に連れて行かれた。

「あんたは、何処に行っても三日坊主だね。今度は易しいところにしたから、1年間は止めたらダメだよ」ときつく言い渡された。今度こそは押し込んでやろうというD子の意気込みに、押されるようにして入ったのが「ヒヨコ英会話」教室である。これが残りの人生を変えることになろうとは、夢にも思わなかった。

「ヒヨコ」とうたっているだけあって、ちょこっと行った川柳・ヨガ・手話に比べて、確かに易しいと思った。しかし、ここでも私はお客さん。教室の片隅で暗い顔してじっと座っているだけだった。人並みに横のオジサンに話しかけたりするのだが、「旅行しない・山登れない、カラオケ・釣り・パークゴルフ・囲碁将棋出来ない」ことが分かると、それ以上話が続かないのだ。

9ヶ月目にやっと話し相手に恵まれた。たまたま横に座ったAさんが話しかけてくれたのである。まさに地獄に仏だ。一人でダンマリも楽でない。金曜の朝は憂鬱だ。「今日は英語だよ」と言ってD子が尻を押す。 どうして、こんなにお節介になってしまったのだろう。控えめな人と思っていたのに。家を出てもこのまま図書館にでも行こうかと思ったことが、何回もある。しかし、仕事人間の習性もまだ残っていて嫌々ながらでも足が「英会話」の方に向いてしまう。 

Aさんは親分肌で教室中、全部自分の友人にしないと気がすまないようだ。お陰様で引っ込み思案の私も、晴れて友人の一人に加えさせてもらえた。「いつも一人で寂しそうだから、声をかけて上げたのよ」と恩着せがましいのだが、大勢の中で一人ダンマリも、楽じゃないので有難かった。 これがきっかけで皆さんとも打ち解けるようになり、1年後にはハワイ旅行にも参加した。そして、これが生涯一番の楽しい想い出になったのである。

その後感じたことだが、世の中のいろいろな場所に人と人を繋ぐ、接着剤みたいな人が配置されている。私は一つの素材となって接着剤で繋いでもらうことを覚えた。最近ではどこに顔を出しても親しく話せる仲間がいるような気がしている。人慣れしてくると、長年趣味としてやってきたパソコンのグループにも入りたくなった。こうして入ったのが、現在所属しているシニアネットである。

最初はパソコンの勉強をしようと意気込んでいたが、生まれつき緻密なことと、素早い処理は苦手だ。3年間試行錯誤した末、ついにパソコンの勉強は諦めてしまった。 今では私自身が人と人を繋ぐ接着剤の役目を果たいと思っている。引っ込み思案の私には、所詮ムリな「仕事」だが、できるだけのことはやってみたい。 人生の秋は、人として生きて行きたいからである。それから13年たって80歳、すべての活動を止めてノンビリ暮らしている。これはこれでいいもんだ。

およそ6年前、現住所に転居したころは体調が最悪でだった。とにかくあちこち痛い。整形外科に行っても埒が明かないので、マッサージ治療を受けることにした。 担当のマッサージ師は目の不自由な若い女性で、S先生と呼ばれていた。マッサージの腕は確かだが、とにかく よく喋り よく笑う。「暗いね~。あんた暗いね~」と言いながら笑うのである。

S先生はマッサージをしながら、耳だけを傾けてくれそうな気がして、とても話しやすい。それに、私のことを水も滴るいい男と思ってくれるかも知れない。なんたって、頭と顔のマッサージはないのだから。目が不自由な先生から「暗いね~」と言われては、立場がないが、どんな風に言われるか、例を挙げてみよう。

「喧嘩したのね。 それで、どうしたの?」とS先生。
「自分の部屋に入って鍵をかけたんです」と私。
「奥さんから逃げたわけね」
「妻は攻めて来たりしません。 ただ、中で何をやっているのか見られたくなかったのです」
「見られたくないって、何をさ?」

と問われ、ちょっと答えを躊躇した。患者は私一人だが、院長先生も、受付もいる。 彼らには聞かれたくない。 それで、小さな声でボゾボソと答えると。
「えっえ~!パソコンで奥さんの悪口書いているって~! あんた暗いね~。ホントに暗いね~。アッハッ、ハッ、ハ~」
私の名案もS先生に豪快に笑い飛ばされてしまった。 声がでかすぎる、これを聞いた受付の若い子は一体どう思っただろうか。 気になって仕方がない。 なんて明るい人だ。

私自身は高齢になったにも関わらず、今の方が明るい気持ちで日々暮らしている。性格は変わってないのだから、人の気持ちが明るくなるも、暗くなるも、周りの人の気持ち次第だと思う。S先生は目が不自由だが、家族とか友人の影響を受けて明るい性格に育ったのだと思う。

私は家の中を修羅場にしたくはない。自分が我慢すればすむ事なら、なんとか穏便にすましたい。 分からず屋と喧嘩するかわりに、自室にこもって、パソコンに悪口を書くことが、そんなに暗いだろうか。名案と思った、この対応をS先生に「暗いね~。アッハッ、ハッ、ハ~」と笑い飛ばされてしまった。

どこの世界でも意見の対立はあるものだが、順序立てて説明し、二三の裏づけになる証明さえすれば、少なくとも、そのことについては納得してもらえるものである。大抵の場合は「君の言うことは分かる。しかし、......」ということになる。しかし、妻の場合は全く違う。「それは違う。 悪いのはあんた」の一点張り。何回も説明して、例を挙げて証明してみせても同じことである。

「男は外に出れば7人の敵がいる」と よく言われるが、家の中にこんな強敵がいるとは、夢にも思わなかった。 うかつにも、退職して家にいて初めて気が付いたことである。二人っきりの喧嘩は仲裁が入らないので、限りなく続く。 私は「説明と証明」。 一方、妻は「あんたが悪い」の一点張り。両者のエネルギー消費量を考えれば勝敗の帰趨は明らかである。

「苛められて悩んでいるときはパソコンに語しかけると、答えを出してくれるんですよ」と私。
「暗いね~。パソちゃんは何て言ってたの?」
「奥さんは良い人だけど、相手の身になって考えることが出来ないんだ。 と言ってました」
「正直なのね」
「そういえば......、嘘つかないですよ。 約束は守るし、時間も正確。 それから......」 
いつの間にか妻の良い点ばかりを話し続けていた。
「だいぶ明るくなったじゃない。 嬉しそうな顔して」
「えっ! 見えるんですか」
「見えますよ。はっきりと......。 奥さんの勝ち誇った顔が」

在職中は私は仕事、D子は家事。 明確な分業が成り立っていた。誰がいつ決めたか知らないが、そうなっていた。 

かなり昔の話だが、待ちに待った定年退職がやって来た「ハッピーリタイアメント、さあ!のんびるするぞ!」と喜び勇んだのは、つかの間。厳しい現実が待っていた。

予期に反して、なんだかんだと居心地が悪い。しばらくすると自分の立場に気付いて愕然とした。我家はいつの間にかD子の支配下にあり、私の立場は何も知らない新入社員の様なものになっていた。

しかし、こんなことで負けてはいられない「家でノンビリ」は長年の憧れ。どうしても譲れない一線だ。 創意と工夫で、この難局を打開しようと決心した。

「私はこの作戦の必勝を期して『オペレーション・ゆとり』と命名しました」
「おいおい、女房の尻の下から脱出するのに、作戦かい」
「敵を甘く見てはいけません。 作戦目標は『ノンビリした暮らしの奪回』です」
「オレはとっくの昔からやってるよ」
「奥様の手のひらで踊っているだけです。陰で笑われているのをご存知ないのですか」

半年もすると、二人暮らしのコツも身についてきた。「嫌・駄目・出来ない、はご法度」。何も一生懸命やることはない。とりあえずは「うんうん、それもいいね」と言っておけば、万事OKだ。

「仕事を止めたんだから、家事は半々にしようね」と言われてもビックリすることはない。「うんうん、それもいいね」と言って置けばいいのだ。

別に、何時からと言われた訳ではない。「うんうん、いいね」で充分である。しかし、「明日からやってよ」と言われたら、少々知恵を働かさなければならない。

「うんうん、いいね」は決まり文句だから、そのままで良い。難しいのは後半だ。間違っても「出来ない」とは言ってはいけない。そんなこと言ったら最後、厳しい訓練が待っている。D子は決して甘くはないのである。 

「明日、あさっては予定があるので、3日後からやります」と、とりあえずは先送りする。3日後に同じことを言ってくることは滅多にない。D子は忘れっぽいのだ。敵の弱点は充分研究してある。 

もし言ってきたとすると大変だ。忘れっぽいD子が3日も覚えていたのだ。ただ事ではない。毅然とした対応が必要となる。

「三日がどうした!四の五の言うな。オレをなめるな。甘くはないぞ~!」
「ほ~ぉ、それで、D子さんはなんて言った」
「六でなし~!」

11月23日、北国の公園だが、池が凍結し始めている。カモが好む水場が狭くなり、だんだん居心地が悪くなってきたようだ。全てが凍結すると、池から出て同じ園内の川に移動する。家庭内の居心地の悪さに耐え切れず、外に憩いを求める情けない男に似ていて、身につまされる。